スポンサーサイト
- --/--/--(--) -
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事のURL | スポンサー広告 | ▲ top
柔道に精神性は無用か?
- 2008/08/14(Thu) -
 オリンピックが盛り上がりを見せています。

 昨日は、太田選手がフェンシングで銀メダルを獲得してくれました。

 一方、オリンピックになると、どうしても柔道から目が離せなくなります。

 フェンシング柔道、この2つの競技を見ながら、思ったことがあります。

 オリンピックには、実に様々な競技がありますが、それぞれ発祥の地というものが当然あります。

 柔道は当然日本、フェンシングはフランスです。

 発祥の地の違いによってそれぞれの文化が反映されている点は面白い点です。

 世界には様々な人種・文化・宗教・・・の人たちがいる。そのような多様性を積極的に認めようということがオリンピックのひとつの意義ではなかろうかと思っています。

 多様性のないものは極めて脆弱です。

 生物界も種の多様性がその存立の基盤であることは広く認められています。

 価値観も多様であるからこそ、それらのぶつかり合いの中から新たな価値が生まれるわけです。

 フェンシングでは「騎士道」精神に基づく高い精神性が求められているそうです。
 騎士道精神に則ったスポーツであるから、対戦者や審判には最大の敬意を払うことが求められます。
 ですから、試合前と試合終了時に‘礼(サリュー)’が義務づけられたり、選手の紳士的でない行為やファウルに対してはイエローカードによる警告(2回受けると失格)が与えられます。

 このように競技そのものが、その成立してきた歴史に起因する精神性を内包することは、上記の理由で可能な限り尊重に値することだろうと考えています。

 そのような成り立ちに起因するルールの堅苦しさこそがひとつの価値ではなかろうかと思うわけです。

 振り返って、柔道、あるいはJUDO、

 ここにおいては、柔道が本来的に持つ精神性がどんどん失われていっているように思えてなりません。

 「柔よく剛を制す」などという言葉はもはや死語になったかのようです。
 「戦場において、体格的・体力的に劣っているから負けた」などという言い訳は通用しませんから、体格差・体力差を跳ね返すということは重要な意義があったのではなかろうかと想像します。

 もろ手刈りや朽木倒しといった、お世辞にも美しいとは言えない力業が横行する柔道からは、どんどん魅力が失われていくように思えてなりません。
 もちろんこのような美しくない技も柔道の技には違いありませんが・・・

 相手の力を利用して、これを制す、その為にはときには相手の出方をじっとうかがうことも必要です。
 その意味で、攻めの姿勢が見えないからと言って反則をとるという国際ルールは、私には違和感があります。

 更に言えば、勝者が畳の上で飛び跳ねて喜びを露わにする行為は、あまりにも敗者に対する配慮に欠けた行為に思えます。

 武士道がどこまで日本文化として認められるかはもちろん議論はあります。しかし、武士道が言う「仁」の心(苦しんでいる人、落胆している人のことを常に心にとめる)に共感できる日本人は多いのではないかと思います。

 政治・経済・ビジネスや法務などの世界では、標準化・規格化は国際取引の基本的事項として重要です。

 しかし、文化におけるそれは、多様性の否定以外のなにものでもありません。


FC2ブログランキング

ブログランキングに参加しています。
是非上のバナーをひと押し、お願いします。


お盆休み、
やはりオリンピックです。

この記事のURL | その他 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
<<将来予想とシミュレーション その2 | メイン | 将来予想とシミュレーション その1>>
コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://herbist.blog115.fc2.com/tb.php/260-d253e4c9
| メイン |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。